昭和40年代 小牧市に生まれて (自分史)
2020-07-14T13:48:52+09:00
komakishi
私の記憶をここに刻みます。
Excite Blog
2020年建て替えを開始した小牧市立南小学校
http://komakishi.exblog.jp/240470540/
2020-07-14T13:48:00+09:00
2020-07-14T13:48:52+09:00
2020-07-14T13:48:52+09:00
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帰省してみて。
ところで、後輩の猪亦くんが運営しているFacebookページ ぶらり旅 in 小牧 小牧市に帰らない私のとって貴重な情報源です。
そこで入ってきた情報 小牧市南小学校が建て替えとか。
私が昭和47年から53年まで通っていた小学校です。
何か思い出があるかというと、小学校ってのは記憶が断片でしかないのです。
担任の先生はなんとなく覚えているけど同級生はほとんど覚えていない。
ちなみに担任はこんな感じだたよーな
ヤマモトキンコ先生
清水先生
イノマタ先生
柳沢先生
中井先生
書かないと忘れちゃいますからね。
さて、校舎の思い出を箇条書き
入学しばらくしてできた別館薄暗い理科室体育館は大雨で床がグチャグチャヒルが対象派生する池目立たない二宮金次郎像回転する遊戯でけが人続出木片が出てくる砂場(骨かと思っていた)
このくらいかな〜
登下校の思い出は…(南小学校周辺)
年寄り夫婦がやっていた水野屋さんで菓子パンを買ってはいけない自転車でお世話になった別所モータース
以外とない
学校の近くで自動車修理工場(今はローソン?)を経営していた叔父は
とにかく金持ち経営者だった(今も財産がある)
私の実家も含め相当数の不動産を所有している。
皆さんが利用しているお店も叔父のものでは?(笑)
おっと、南小学校から話題がずれた。
こんな感じで連想で記憶が蘇る。
どんな校舎になるのか…
少子高齢化や多様性が進む小牧
どんなふうに変化するのか。
もう小牧に住んでいない私は知る由もない
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2018年によみがる昭和の時代
http://komakishi.exblog.jp/238693146/
2018-08-06T08:49:00+09:00
2018-08-07T08:27:20+09:00
2018-08-06T08:49:48+09:00
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帰省してみて。
2018年8月5日、愛知県小牧市のあるお寺では「施餓鬼」と呼ばれる
お盆の儀式があります。
今年は日曜にあたりいとこの一人が「7年ぶりの日曜なのでいとこ会をしましょう」と声がけをいただく。
人が集まると語られるのは、今の自分か、過去の共通話題。
この日は当然「過去の共通話題」
我がルールは小牧市の上ノ町(今はない)という賑わいの中心であり、
街道沿いにありました。
江戸末期から続く料亭として、昭和50年代までこの地のあり
その後小牧山の近くに移転するものの100年以上の歴史のある料亭でした。
いとこで一番年上の方が語る歴史は、今だから興味の持てる凄い深い内容でした…
歴史に興味をもち解釈をする江戸末期に始まった料亭「寿司銀本店」のルーツは…‥
「◯◯茶屋婆婆」が祖となります。
私の記憶では昭和40年前半に田中清一による「寿司銀本店」
お店は街道筋であるがため間口が狭くうなぎの寝床でした。
(街道筋のお店は間口で税金が取られたため全国共通で狭い間口です)
1階は:食事をする場、調理場、居室
2階は:宴会場、小さな部屋がいくつか
風呂場は大きく、そして敷地の中に「神様」を祀っていました。
笑いの話の中にヒントが
寿司銀本店はまるで旅館のようなつくりでした、木造で豪華…
宴会場は大学の教授会や市役所の会合など小牧を代表とする料亭扱い
(東京でいう 赤坂界隈、横浜でいう愛知屋さんなど)
「小さな部屋」ここでは東京帰りの私の両親と私が住んでました。
「小さな部屋」?そして祖である「茶屋婆婆」
お話と色々と歴史を紐解くと「寿司銀本店」は「出合茶屋」だったようです。
出合茶屋は江戸時代に存在した、男女が密会するための茶屋であり待合でもあり、そば屋の二階とも言います。
いわゆるラブホテルです。
昔は料亭はラブホテル…、ちょんのまなのども同じですよね(あちらは完全な風俗です)
寿司銀本家は田中清一さんの子どもは娘多く、初のオトコ(長男)が生まれた時、男の子の教育上
茶屋をやめて完全な料亭にしたそうです。
内部環境を意識して業態を変えた 田中清一の判断です。
なぜ断ち切られたのか寿司銀本店は女性でなりたっていたお店。
お店を切り盛りしていたのは、清一の妻と次女。そして長男の嫁です。
休みもなく夜通し働き、お店はとても繁盛していました。
では清一は何をしていたのかというと。
妾をつくりそちらに入り浸りでした。
それが小牧市民病院の近くにあった「寿司銀支店」です。
昭和50年に青春時代を過ごした方々に寿司銀の名前を聞くと、ほとんどが「寿司銀支店」の話です。
昭和42年頃、清一の妻はなくなり
昭和46年頃、清一はなくなります。
その頃、相続とともに国税がお店に入ります。
料亭としてはまわせていても経営をしらない田中家は、上ノ町の土地を出ていくこととなります。
税金を支払うことができず、土地を売却し、
寿司銀本店は小牧山の近くへ。
そして実質店を切り盛りしていた次女は寿司銀茶屋を別の場所に開店させます。
(ここから田中家の叔父と叔母の確執がはじまります)
寿司銀本店は誰が回していたのか?
昭和40年代は父「清勝」が回していましたが、清一と喧嘩をして上ノ町をあとにして桜井で天ぷらと雑炊のお店を開店させます。
長男は、もともとお勤め人であるため調理ができません。
そこで、板前さんをやといお店を回していました。
そのあとは色々とありますが、ここの内容は差し控えます。
ただ、断ち切られた原因は「経営を学ぶ場」がなかったのと、
儲けを家族や社会のためにではなく 私利私欲のために費やしたため寿司銀本店は100年の歴史に幕をおろしました。
いまの私があるのは先祖がいるから懐かしい話と笑い話の中に寿司銀本店の歴史を聞き、脳内をいろんなことがめぐり
その後の叔父と叔母はどうなったのか
寿司銀本店を締めて、小牧界隈で不動産事業を展開
寿司銀ではなく車を販売し、ビルやマンションなど複数もち不動産会社を経営
寿司銀を岐阜美濃太田に移し飲食店を経営
名古屋で喫茶店を経営
おじおばはの中にはお勤め人がいません。
みな個人事業主か経営者です。
私は子どもの頃から商売についてお話を聞いていた記憶があり
(残念ながら経営学は学んでいません)
だからこそ「金は自分で稼ぐもの」というのが当たり前にあったのです。
今から思うと、毎年小牧に帰ると、叔父と叔母との会話は お金儲けと投資の話ばかりでした。
つまり、今の私は先祖がいるから。
残念ながら寿司銀は継承できませんでしたが、
皆が残したなにかを学ぶ最後にチャンスが訪れているような気がした
2018年8月5日でした。
余談ですが、私は物心つくまで親戚のおお姉さんと毎日いっしょでした
女性の中の「お人形さん」だったようです。笑
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地名 みなみやしき
http://komakishi.exblog.jp/7748837/
2008-12-19T16:27:10+09:00
2008-12-19T16:28:07+09:00
2008-12-19T16:28:07+09:00
komakishi
地名
小牧市南方には北外山(きたとやま)という土地(地名)があります。
北外山はさらにいくつかの土地に分かれていて、私が住んでいた場所は南屋敷。
外山神社中心として土地です。
外山神社は、縄文時代の銅鐸が見つかった神社です。
南屋敷の由来をご存じな方いらっしゃいますか?]]>
名鉄モンキーパークモノレール線
http://komakishi.exblog.jp/7724401/
2008-12-09T16:39:16+09:00
2008-12-09T16:25:59+09:00
2008-12-09T16:25:59+09:00
komakishi
小牧市と思い出
最終は2008年12月28日となるようです。
子供の頃、よく乗りました。
モンキーパークはその昔、犬山ラインパークと言われていました。
小牧に一番近い、遊園地です。
特撮ヒーローや漫画(アニメ)のテーマパーク的なものを定期的にやっていた。
両親と朝からここへ行き、お弁当片手にお昼過ぎまで。
今でこそ自分の写真を撮らない私ですが、当時の写真の中で、犬山ラインパークで写した写真がいくつか残っている。
ゴリラを背景に、ベビーカーにのった弟(現在音信不通)、亡き母、そしてレインボーマンの写真を両手で持った私。
小学6年の時、体操クラブの講師(大学生)、仲間と一緒に行った写真。
懐かしいです。
中学には犬山ラインパークよりモンキーセンターに興味を持った。
ちょうどその頃、名前が犬山ラインパークから日本モンキーパークに変わった。
モノレールの話に戻り。
自宅の近く名鉄「間内」駅から名鉄「犬山遊園」駅に向かい、犬山遊園からモノレールに乗る。
ゆっくりとゆっくりと、一生懸命走るモノレール。
駅は、犬山遊園駅 、 成田山駅 、 動物園駅の3駅しかない。
そういえば、テレビで成田山を報道すると、私の頭の中では犬山の成田山のイメージがあった。
最後にもう一度乗りたかったけど、時すでに遅しですね。
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小牧街並みと人。
http://komakishi.exblog.jp/7372643/
2008-08-06T11:03:44+09:00
2008-08-06T11:04:12+09:00
2008-08-06T11:04:12+09:00
komakishi
帰省してみて。
私の先祖は代々 西林寺にお墓を預けています、このお寺のお盆は他のお寺や地方より1週間ほど早く行事を行います。
盆施餓鬼と言います。
朝、9:00前に小牧駅を到着、徒歩で西林寺に向かう。
小牧駅から ラピオスの前、YAMADAの前を通り…。
昔の市町が何を間違えたのか「箱もの」をしたなごりがわかります。
私は不動産業を経験がありいくつかの街を見ていますが、間違いなく無計画の再開発をした感じを受けます。
街がつめたい、人が歩いていない。
昔の小牧はもっと人がいました、人がいないということは魅力ないということですね。
小牧の財政はいいみたいです、でもその財政を支えているのは誘致されている企業の法人税です。
法人は様々な理由により自己防衛をします、つまり撤退ということを平気で行います。
日本という国は、零細・中小企業で支えられています。
自治体や大企業に頼らず、地元の人が元気にならないと、小牧という街は消滅するでしょうね。
地元の方には申し訳ありませんが、この20年間で かなりさびれた街になっています。
地元の方頑張ってください。応援しますよ。]]>
昭和46年(1971年)夏 ジャスコの屋上
http://komakishi.exblog.jp/6650627/
2008-01-07T19:02:00+09:00
2008-01-07T19:04:01+09:00
2008-01-07T19:02:29+09:00
komakishi
昭和46年
1Fには小牧の優良企業であるサワムラヤの食品売り場があり、2Fより上には
衣料、雑貨、家電製品、おもちゃ、レコードまで。
つまり小牧の数少ないデパート。
売り場は3Fまで、そしてその上には屋上がある。
その屋上には、遊戯施設が。
簡単な乗り物と、ジェットコースターもどきのモノレール(謎の乗り物)。
ユニーにも遊戯施設はあったが、こちらは乗り物系が充実している。
両親とジャスコへ買い物に行くと、必ず何かに乗って遊ぶ。
たま~~に、怪物くんやウルトラマンなどもいて
「ジャスコの屋上は楽しいところ」
そんな記憶があります。
##注意 : 今のジャスコとは場所も規模も全く違う店舗です。
##補足 : 当時ここのジャスコは「岡田屋」とも呼ばれていました(合併前ですね)。]]>
昭和53年(1978年)冬 国道41号線の24
http://komakishi.exblog.jp/6612710/
2007-12-28T16:21:15+09:00
2007-12-28T16:21:15+09:00
2007-12-28T16:21:15+09:00
komakishi
昭和53年
まだコンビニはなかった、夜は静かである。
夜遊びする場所もなかったので、夜遊びのしようがなかった。
でも1年に1回おおみそかだけ許された。
集まる場所は国道41号線の24。
当時は24時間営業の店が2店あった。
・花塚橋南交差点のお24
・弥生町西交差点の近くにある24
花塚橋南交差点のお店はいつの間にか閉店していたので、弥生町西交差点の近くにあるお店
に集まった。
「24」
風営法改正前なので、24時間中ずっとゲーム施設とオートレストランはオープンしていた。
そして、当時私たちの世代は「24」を「ニーヨン」と呼んでいた。
7歳年下の弟世代は「ウホー」と呼んだ。
どうやら「ウホー」が正式名称らしい。
24にたまるのは応時中と牧中の学生。
ゲーム施設(ゲームセンター)にたまる(集まる)のは不良というイメージがあるが。
全然そんなことなかった。
やっとゲームがTVゲームにかわったけど 稼働していたのは
インベーダーゲーム、ギャラシアン、ギャラガ、ムーンクレスタ、シェリフ等。
でもね、おおみそかに夜遊びを許されていても、そんなに遅い時間までは遊んでいなかった。
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地名 いちのくた
http://komakishi.exblog.jp/6571543/
2007-12-17T16:13:00+09:00
2008-01-07T18:45:24+09:00
2007-12-17T16:13:10+09:00
komakishi
地名
小牧市の南部、県営名古屋空港(旧 小牧空港)のある地域。
私が通っていたいちのくた幼稚園はここにあります。
昭和40年から昭和50年の市之久田の印象は、養豚所の臭いと広大な田畑。
近くには空港やバイパス(国道41号線)はありますが、ここだけ田舎な雰囲気。
農家の方も多く、舗装された道の間に市道というか農道がちらほら。
晩秋になると、田畑からこげた臭いがする。
そんな思い出の土地でした。
参考 :
昭和44年(1969年)夏 いちのくた幼稚園]]>
昭和51年(1976年)夏 我が家は、うなぎ屋
http://komakishi.exblog.jp/5940851/
2007-07-31T18:53:12+09:00
2007-07-31T18:53:12+09:00
2007-07-31T18:53:12+09:00
komakishi
昭和51年
セミの声、小牧市七夕祭り、そしてうなぎ。
土曜の頃、学校から自宅に戻る。
ダクト(換気扇)の「ゴォ~」という音と一緒に
うなぎの香りが私をつつむ。
「ただいま~」と裏から店に入ると、そこは慌ただしい。
この頃、自宅は1階で、お店の奥にすまいがあった。
裏口から入って、お勝手を通りトイレの前を通過して
始めてすまいにたどり着く。
弟はまだ4歳。幼稚園に通い始めたばかり。
家は父と母と職人とパート4~5人でまわしていたため
家事ができない。
細川さんという自宅の近くにすんでいたおばあちゃんが
洗濯やその他を手伝ってくれていた。
すまいについて、じっと待つ。
時間は14:00頃、
母が「昼食だよ」と呼びに来る。
飲食店の昼食は14:00位、昼の部から夜の部の間を準備中
とする我が家では、この準備中に食事をとる。
テレビでは吉本新喜劇が流れる、間寛平、木村進などが
若手として活躍している。
そんな昼に「うなぎ丼」が出る。
カレー、スパゲティー、ハンバーグが好きな子供にとって
ありがたくない食事。
おいしいとは感じない。
でもタレは好きだった。
飲食店は毎日 お米がたけているので、小腹が空いたら、
ご飯にタレをかけて食べる。
タレは、小牧の味噌鉄というお店で売っている醤油を父が
加工して作ったもの、何年も継ぎ足している。
旨かった。
うなぎ屋の息子にとっての土用の丑の日は夏の思い出である。
また食べたいなぁ~ でもあの味を再現できる人はこの世にいない。]]>
昭和45年(1970年)春 小牧自動車学校の近くの公園
http://komakishi.exblog.jp/5401123/
2007-04-11T11:47:22+09:00
2007-04-11T11:47:23+09:00
2007-04-11T11:47:23+09:00
komakishi
昭和45年
よく道に迷った、とにかくふらふらと歩き回って家に帰れなくなる。
でも、結局今があるわけだから帰ることができたのでしょうね。
小牧自動車学校の近くに公園がある。
小牧自動車学校の北北西あたりだと思う。
桜井の自宅からすぐ近くだけど、子供にとっては十分な距離。
ここに到着をして道に迷った。
その頃はまだできたて公園だったけど、桜はきれいだった。
春になると、公園は桜色で埋め尽くされた。
小さな公園だけど、それは覚えている。
桜がきれいだった公園の地図
今はどうなんだろうか。]]>
昭和63年(1988年)夏 和歌というお好み焼き屋
http://komakishi.exblog.jp/5174432/
2007-02-27T14:46:20+09:00
2007-02-27T14:46:21+09:00
2007-02-27T14:46:21+09:00
komakishi
昭和62年
彼のお母さんがお好み焼き屋を始めた。
小牧市民病院の前にある貸店舗の一角。
「和歌」という名前のお好み焼き屋。
味付けや作り方は京風だそうだ。
このお店にいつも通った訳ではないが、中村君と待ち合わせに使った。
このお好み焼き屋は、小牧市民病院にいる患者さんや関係者にも評判
のお店だった。]]>
昭和49年(1974年)春 外山ストアー
http://komakishi.exblog.jp/4962889/
2007-01-09T19:56:44+09:00
2007-01-09T19:56:44+09:00
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komakishi
昭和49年
この時、学区外を越えることは、基本的には「いけない」ことであった。
北外山には県営住宅がある。
「けんじゅう」と呼んでいた。
その中に、食品や一般雑貨を扱う場所があった、いくつものお店が
一つの建物にはいっている「外山ストアー」。
この建物、小牧ストアーとだぶっているため、あまり記憶にはないが
Vマートもなく、小牧ストアーもなく、ぞうさんユニー(小牧山のユニー)
もなく、 買い物は小牧の駅前のユニーかジャスコまで行かなければ
いけなかったので、とても重宝した。
この建物の外に、お菓子屋さんがあり、そこの娘は私より一つ年が上
であった。勉強のできた娘だった。
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昭和59年(1984年)夏 お好み焼き 右京
http://komakishi.exblog.jp/4792863/
2006-12-04T15:41:49+09:00
2006-12-04T15:41:49+09:00
2006-12-04T15:41:49+09:00
komakishi
昭和59年
合宿を前にして、Vocal部の先輩より「右京のお好み焼きを買ってきてくれ!」
との指令が出ました。
お好み焼き「右京」
春日井市は松本町、中部大学がある春日ケ丘の「ふもと(?)」にある数坪程の
小さなお好み焼き屋。
メニューはお好み焼きと焼きそば そして定番の具達。
私達は常連でした、なにせ370円で特大サイズのお好み焼きが食べられるので
す。
量を考えると、学食の「味噌かつ定食」と同じ値段なのですが、それより遥か
上をいっていました。
お好み焼きは愛知独特の薄皮にキャベツが沢山はいっているスタイル。
今は存在しませんけど、旨かったなぁ〜]]>
昭和54年(1974年)秋 間内駅の近くにあった塾
http://komakishi.exblog.jp/4727925/
2006-11-22T19:48:38+09:00
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komakishi
昭和54年
家が自営業なので、基本的には「ほったらかし」状態。
それでも、「塾ぐらいは」ということで、応時中学校の同級生 飯田君のおすすめで
間内駅の近くの塾に通うことに。
名前が思い出せない。
当時あったVマート間内店から春日井市方面へ向かい、名鉄小牧線の線路を渡り
鈴木商店を超え、タカケンクリーニング(当時)の先の角を左に曲がった所にあった
塾。
昔タイプの塾。「進学校を狙え!」ではなく「楽しく勉強をしよう!」そんな塾。
先生も二名。
この塾のオーナー
他から来ている先生(足が不自由な方でした)
学校の延長のようで勉強をする。 途中休憩でお菓子が出る。
ゆっくりとした塾。
そこである男の子と出会う。
松下祐君(今は某会社の娘さんとご結婚をして別姓を名乗っています)
不思議なことにこれをきっかけに仲良くなった。
何故か、何故か。 不思議なもんです。
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昭和59年(1984年)冬 中華料理 天津
http://komakishi.exblog.jp/4617329/
2006-11-02T19:21:18+09:00
2006-11-02T19:21:18+09:00
2006-11-02T19:21:18+09:00
komakishi
昭和59年
ケンタッキーフライドチキン小牧店でのアルバイト、夕飯はチキンではなく、近くの中華料理
屋から出前を取ります。
国道155線沿いケンタッキーフライドチキン小牧店の向かいにある中華料理屋「天津」
アルバイト中の空腹を満たしてくれるのには十分で味もよし!
そして、マスターとママさんがとてもいい人。但し夫婦喧嘩をしている時は要注意でしたが(笑)
私はいつも 味噌麻婆豆腐の10辛を頼んでいました。 10辛は普通存在しません。
他には、かいこうチャーハン(チャーハンの上にかいこう料理がのってます。)
閉店後も、天津に行って、スープ餃子や台湾ラーメン、そして名物のから揚げを食しましたね。
天津とケンタッキーフライドチキンの絆はすごくて、ケンタッキーOFFのアルバイトが天津に
いたり、年末の大掃除にはケンタッキーのアルバイトが天津の掃除を手伝ったり。
また、ケンタッキーの一大イベント、クリスマスには天津から差し入れあったり。
とても、いい絆というか関係でした。
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