私の記憶をここに刻みます。


by komakishi

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<注意:かなりあやふやな記憶です。時期に誤りのある
場合はご指摘下さい。>


小学3年生。両親の経営していたお店にお客さんが持ってきた
チケット。

そのこに「フィンガー5」という名前があった。

フィンガー5というと、当時めちゃくちゃ人気のあったアイドルグ
ループ。
今聞くと結構ソウルフルな本格的なグループだったりします。

そのフィンガー5が小牧に来るのです。

コンサート会場はなんと!「小牧市市民会館」!!

小牧市市民会館は昭和46年に開館をした、市民のための
公共施設です。

場所は小牧山の東側にあり、小牧山と小牧駅のちょうど
真ん中辺りにあります。
名古屋や東京などでは考えられない、けんぺい率で建物
がたっています(つまり贅沢な土地の使い方をして
いるということ)。

今では考えられません。

当時ヒットチャートに出ていたトップアイドルが、小牧市民会館???

詳細は覚えていませんが、「学園天国」「恋のダイヤル6700」
は歌っていたのは覚えています。

フィンガー5のファンサイト、フィンガー5伝説というサイトにもの
っていない。

そんな思い出です。
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by komakishi | 2005-06-15 02:06 | 昭和49年
大学2年、国道41号線に突然現れた施設、ラッキー健康
ランド。

お風呂というものに対して新しい概念を与えた施設。
お風呂を中心としたアミューズメント施設といえばよ
いのだろう。
今ではあまり珍しくないのだが、当時は衝撃的であった。

最初にラッキー健康ランドを利用したのが、K.F.C.(ケ
ンタッキーフライドチキン)小牧店のアルバイトの帰り
友人と利用したのが最初であった。

ただ風呂に入るだけであるが、深夜という時間が合わさ
り奇妙なイメージを持った。

最初は利用者だったのだが、偶然にも母の妹である冬子
さんがここの料亭で働くこととなり、私に「年末ラッキ
ー健康ランドの駐車場整理をしない?」という話をして
きた。

利用者だった私が、アルバイトとは言えラッキーの人と
なってしまった。

アルバイトの内容は駐車場整理、やることは、車の入場
制限と整理。

しかし半端ではない交通量、年始は特に国道41号が大渋
滞。

とても忙しかった。満足のいくアルバイト料を手に入れた
が、その後足がはれて歩けなくなった。。


補足:ラッキー健康ランドは現在スパガーラという名称に
   変わりました。
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by komakishi | 2005-06-14 01:31 | 昭和60年
中学2年、学級編成があり担任や科目の先生が変わった。

西川菊次郎先生は他でも語ったので、他に印象に残る先生
をここで。

やはり宮本先生だろう。。。

しかし、私はあまりこの先生を語ることができない。
というか、もっと宮本先生を愛し、語ることができる人が沢山い
るのでその方に譲ります。

あえて、少し触れるのならば。。。

この先生、記憶ではすぐ近くの米野小学校から赴任してきた。
応時中学は南小学校と米野小学校の生徒がいる。
米野小学校卒業生からも人気があり信頼のあった先生。
すぐに話題となった。

体育の先生であり、三重県では野球の名門高校の卒業

(実は、この後進学する、中部工業大学付属高校に赴任してき
た柏木先生の先輩にあたる)。

先生は兄貴である。

最初はわからなかったが、1年間 体育を受け持ってもらい
この先生がどれだけ凄い人かわかった。

この先生は教育者である以前に「人」である。

学問を教えるというより「人」を教える先生。
熱心というよりは、自然である。

そこが皆に受けたのだろう。

やさしさはあるが、厳しい、怒るととても怖い。
しかしその人のことを思っているという感情が伝わる
(この辺り、西川先生に似ていた)

某卒業生のコミュニティーサイトで同級生の書き込みのこの
先生と集う書き込みがある。

宮本先生のことは、私ではなく その人達に語ってもらいたい。


補足:
宮本先生は今も小牧で先生として活躍をされているという噂を聞きました。
(未確認)
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by komakishi | 2005-06-12 02:05 | 昭和54年
大学3年の冬。日中は学業とVocal部でバンド、夜は
K.F.C(ケンタッキー)のアルバイト。
とにかく忙しい。

しかしこの頃から忙しさのしわ寄せが体に来る。


ある朝起きると、腰が痛い。
その時は、あまり気にしなかった。


ある朝起きると、腰が伸びない。
よく意味がわからなかった。


ある朝起きると、背骨がゆがんでいる。


ある朝起きると、うまく歩けない。


ある朝起きると、車の運転ができない。


ある朝起きると。。。

日々おかしくなってゆく。

両親は、そんな私に無関心である。
まぁ、家の手伝いもせず、家にもほとんどいないので。。

そして、そんな私は最初、知人の紹介で接骨院に行った。

でも直らない。

そして、とうとう激痛が全身を。

名鉄小牧線「間内」駅の近く井上医院の井上先生に
見てもらうこととなる。

井上医院は、小学の時からのかかりつけのお医者さん。


そこで入院をすすめられる。

両親に入院決定の話をし、中部大学へ向かう。

当時一番お世話になっていた、外書購読(行動科学)
の喜味田(かみた)教授にも相談。
「ゆっくり病気を治しなさい、復学をしたら私の講義
にまたきなさい」とてもやさしい教授であった。

結局大学は下期の試験直前のため、この年の通年単位
下期講義の単位は全て取得できず留年が決定すること
となる。


12月15日 入院。

暗い病室。

年は暮れてゆく。


補足:--------------------------------------------------------

現在の井上医院の院長先生は、お世話になった井上先生
の息子さんだそうです。

嘉味田教授 (嘉味田 朝功) 元中部大学教授
    
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by komakishi | 2005-06-11 10:19 | 昭和61年
小学校5年生 この頃から友人と名古屋に出かけることを始める。
私の自宅から東方 徒歩10分くらいの所に駅がある。
名鉄小牧線「間内」駅

間内駅から、名古屋へ向かうには、名鉄小牧線の終点「上飯田」駅
まで向かい、そこから徒歩で、名古屋地下鉄名城線「平安通」駅ま
で行きそこから「栄」ないし「名駅」に向かう。

間内駅は小牧から外へ出る唯一の手段である。
「間内駅そのものが小牧市ではなく春日井市だ」とつっこまれそう
だが、細かいことはさておき。

この間内駅、単線から複線になったばかり。
朝夕のラッシュ時はホームあふれんばかりの混雑となるが、日中は、
閑散とした駅。

駅は、切符を自動販売機ないし駅員さんから購入をする。まだ名鉄
小牧線には導入されていないので、厚紙の切符だ。

電車がくるまで時間がある時は、駅の売店でお菓子や飲み物を買う。
売店といってもキヨスクのように独立しものが豊富においてあるス
タンドではなく、切符の自動販売機のしたにガラスケースの中に
陳列してあるだけ、販売はもちろん駅員さん。兼務ですね。

電車は1時間に上下6〜8本。長くても15分感覚なので、まぁ苦に
ならない感覚である。

名古屋への足となる駅であったため、周辺には店がいくつかあった。
一番目立つのは、線路の手前にある。スーパー「Vマート間内店」
高校入学後アルバイトをすることになるスーパーである。

線路を超えると、電気屋、喫茶店が2店、お好み焼き屋、酒屋、お菓子
屋など。商店街とまではいかないがまぁぼちぼち栄えていた。

私にとって便利な駅であった。

補足:
現在の間内駅は、自動改札の無人駅であり、改札は二カ所ある。
現在の名鉄小牧線は、「上飯田」駅から地下鉄平安通線で「平安通」
に接続をしている。
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by komakishi | 2005-06-09 09:54 | 昭和51年
小学6年の夏、小牧にはレジャー施設があまりない。

両親が営んでいた店は、木曜が定休日である。

父は板前なので、定休日は家で「焼肉」か「すき焼き」を食べるのが基本であったが、たまに
は外食をした。

西春日井郡豊山町、父は豊場と呼んでいた。豊山町には小牧空港(名古屋空港)
があり、その近くには「空港ボール」がある。国道41号線沿いである。
(実は豊場は豊山町の地名の一つである)


空港ボールには2点の外食店が入っている。

「ステーキのあさくま」
ラテン系の曲に合わせて「ウェルカムトゥ アサクマ」というCFが印象に残って
いる。ファミレスという言葉がまだあまり普及していないので、このお店はレス
トラン、ステーキとハンバーグのお店である。
私は贅沢にも、テンダロインステーキをいつも食べていた。これは板前である父
が、子供頃からいいものを食べさせるというポリシーだったためである。
(子供の私はハンバーグが食べたかった)

「頤和園(いわえん)」
少し贅沢な中華料理。ここの社長は父のマージャン仲間である。
コーンスープと鳥のから揚げが私の定番である

父のその時の気分で、このお店のいずれかを選んでいた。

食後は、空港ボールなので、ボウリング。。といいたいところだが。
実は「パチンコ」である。

子供にパチンコをやらせるなんて、とんでもない親である。

しかし、名古屋はパチンコ屋がおおく何故か生活になじんでいるのでそんなこと
「おかまいなし」 

怖い話だ。

パチンコに飽きると、ゲームセンターでインベーダーゲーム。

定休日、家族団らんのレジャーである(笑)

空港ボールついでに。
ここにはサウナがある。夜、父のよくサウナにつれていってもらった。
サウナデビューは小学校6年生頃、しかも深夜。

本当にとんでもない親である(笑)



参考: 空港ボールは現在わくわくボウルと呼ばれている。
    豊山町、小牧市の隣にある町、世界のイチロー生誕の地である(おおげさ?)
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by komakishi | 2005-06-08 01:49 | 昭和52年
私は通学路を守ったことがなかった。
守ったのは中学1年の秋頃まで。
それ以降は、応時中学校が定めた通学路を通らず、独自の通学路で通っていた。
通学路は、学校が「安全と認めた通路」だと思うのだが、体操クラブでヘトヘ
トの私には、こんか遠回りをする通学路は歩きたくなかった。

でも不思議なことにその独自であるはずの通学路、私以外の生徒を使っていたの
で、皆も同じ考えだったのだろう。

校門を出て300m先を皆と違う方向へ。

最初は公道をあるき、途中から私道をぬける。そして大通り。

その大通りに前の喫茶店があった。
場所は、大山というところにある「支留比亜(しるびあ)」という名前のお店。
なんとまぁ、暴走族的な名前。「なめ猫」が考えだされた土地柄なのか、今見る
と笑ってしまう。


<余談>
 このお店にあったピザトーストは、まだピザが貴重品(笑)だったこの時代に
は画期的なメニューであった。
親と「支留比亜(しるびあ)」に行ったら必ずこのピザトーストを食した。
 「支留比亜(しるびあ)」の詳しい情報は「まるがさん」の
 *まるが*くいだおれブログ*をご覧ください。



この「支留比亜(しるびあ)」の裏を通り、この先は田畑のあぜ道を抜ける。

あぜ道の途中に名鉄小牧線の線路(踏切)がある、遮断機もないのでとても危険
である。
(現在この辺りの線路は地下化している)

そこを超え池田川を渡ると、左側にVマート外山店、右に小牧ストアが見える。

そこから500m先あたりから公式の通学路に合流する。

つまり。。
私道、あぜ道、遮断機のない線路。学校としては絶対認めない通学路ですね。
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by komakishi | 2005-06-03 12:00 | 昭和54年
娯楽のあまりなかった小牧。
小牧市民プールは、小牧の南方にある。そして自宅からも近い。

中学1年の1学期末試験。
勉強があまり好きではなかった私。部活もないし早く帰ること
ができるこの時期。そして夏。

夏と言えば、プール これは当たり前である。

試験中、応時中学では「市民プールへ行ってはならぬ」という
「おふれ」が出ていた。

でも時間があって暑いので「そんなことは関係ない!」

てなわけで、友人の神野君と一緒に強行突破!

プールへはその「おふれ」が届いていないようなので、何も問
題なく入場できた。そして。水!! 壮快! 気持ちがいい!

何分たったのだろうか。。。何か市民プール内では不穏な雰囲
気が。。。。 

先生である、先生がパトロールに来ていた。

「馬鹿正直」な私は神野君と逃げた。。しかしあえなく「お縄」
となりきつ〜い注意をされてしまいました。

その後日。なんと他の友人も当日同じ時間にいたそうだ。でも
彼らは先生が来ていても「なにくわぬ」顔で泳いでいたので、
「お縄」にならなかったらしい。

「でも、待てよ?」

小牧市民プールでは、私が小学校の時、通常のプールで死亡事
故(*)がおきてしまったため、身分証を提出した上ではないと入
場できない。ということは身分証をおさえてしまえば、簡単に
つかまえることができるはずなのに。。

先生も頭を使っていないようですね。(笑)

小牧市民プールの想い出ネタをもう一つ。
現在は、小牧市 南スポーツセンターという一つの名称になったので
道路も整備され、ロッテリアや清水屋がある場所である。

この当時は道路は舗装されておらず。「お店」も市民プールの
前に1店のみ。
プールで遊んだ後その「お店」でパインアイスを買う。

これが至福の贅沢であった。

補足:
ここの思い出にある小牧市民プールは現在、南スポーツセンターの
水泳プールのことです。現在の小牧市民プールは温水プールをさ
します。



*市民プール死亡事故:昭和50年代の初頭に通常のプール(通称
:ふかいプール)で、肉屋の息子さんが亡くなった。
それ以来、通常のプールに入るには、泳録証(50m以上泳げますという
証明)が必要であった。
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by komakishi | 2005-06-01 13:15 | 昭和53年
本日、南小学校の同級生から「ゆびとま」というサイトを通じて
メールが届いた。
内容は「近況と同窓会について」。

嬉しいものである。

ここで小牧の思い出を書いてはいるが、実は「小牧」を15年前に
捨てている。

15年前いろいろ考え。亡き父や親戚一同に対する反発心、
名古屋に対する嫌気などのネガティブなものから、何か「やって
やる!」というポジティブな考え。

でもよく考えると「認めてもらいたい」だけだった。

現在、両親はなくなってしまったが、親戚からは認められている。
コネや繋がりが全くない、異境の地で(おおげさ?)、いちから積み
上げた信用が今ある。
(今後どうなるのか、成功か心配かは死ぬ前までわからないし、そん
な評価どうでもよい)

そして15年後の現在。小牧には何もないと思っていた。
あまり評価のできない都市計画「小牧市」。寂しさとむなしさだけ。

有形なものは何もない。

そこで、今回のメール。

無形なものに何かあるのかも。

小学の同級生、遠い過去のことなので、大変申し訳ないが、ほとんど
憶えていない。

今、小牧(愛知県)で交流のある他人は、大学時代Vocal部時代に同
じバンドだった田畑君、藤井君とKFCアルバイトの中村君だけ。

しかし、そのほとんど憶えていない過去を思い出したい。

それが今年にも実現するかもしれない。
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by komakishi | 2005-06-01 02:11 | 小牧市と思い出