私の記憶をここに刻みます。


by komakishi

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子供に習い事をさせようとする親はいつの時代にもいる。
私が憶えている習い事。

確か、小学2年生頃だったと思う。親は書道塾と学習塾に通わせた。
字が汚いということと、自営業で子供に勉強を教える時間がない
ため勉強の癖をつけさせる意図ではなかったのかと今は思う。

書道塾、当時は習字と行っていたが、通ったのは友人の山本君の進めで、北外山のとある「火の見やぐら」のすぐ近くにあった貸部屋のような所であった。スーパのようなお店の裏手である。
ここへは週に1回(平日)、そし同じ書道の先生が小牧の旧155線のいっぽん入った所でも教えていた(日曜)。
私は両方通った。しかし、長続きしなかった。1年もたなかったと思う。私は子供の頃から落ち着きがなかったので、じっとしている書道(禅の一種らしい)は合わなかったようだ。

次に学習塾、場所は当時「けんじゅう」と呼んでいた北外山県営住宅のちかくへ通っていた。どんな塾かと言うと。ドリルと呼ばれる問題集を延々と子供に解かせる。わからないことは教える。回答もする。
いい意味で自主的学習、悪い意味でほったらかし。
現在の塾にくらべ手抜きもいいところだ(笑)

ここもすぐやめてしまったが、ここでの会話で。
「僕、大人になったら東京へ行く!」と行っていた。

なんだか。。。。たんなるお上りさんです。今でも。
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by komakishi | 2004-05-27 18:44 | 昭和47年
大学生活にも慣れ、クラブ活動も安定してきた。
そろそろ地元でアルバイトでも再開をしたいと思っていた。。。
国道155線を小牧山から国道41号線に向けて、自転車でとおりかかったところ、ふと「アルバイト募集」の貼り紙が目に止まった。

その貼り紙がはってあった建物。。ケンタッキーフライドチキン小牧店。(KFC小牧店)

早速、履歴書を用意し面接の申込みを。

即採用であった。

ここのアルバイト、私の人生の中でも非常に思い出に残るアルバイト。
いろんなことがありました。。。詳しくはいくつかに分けて書きます。

今回は入りたてのお話。

アルバイト初め。
当時の小牧店の店長は丹羽店長、非常に若い店長で若さゆえの暴走ぎみデリケートでプライドの高い人。副店長は波多野副店長、店長と違い、おおざっぱ、暴力的、言い換えれば子供。
(店長、副店長とも好きでした)
そんな上司の元、多くのアルバイトの先輩のもとで色々と学んだ。

驚いたのはアルバイトでありながら社員と同じ、いえそれ以上の責任感があることである。

仕事に対してはプロです。まるでアルバイトがまわしているような感じであった。
遊びもワイルド。「走り屋」が多く、よく皆でつるんでいたようだ。
私も大学やクラブの先輩よりアルバイトの仲間の方が気があった。
(田中さん、清水さん、スミカマさん、木野さん、安藤さん、斉藤さん、山下さん、大野さん、米津、橋本。。。。が始めた頃のメンバー)

大学、クラブ活動、アルバイト。。大学生活に突入したのであった!!

あ~この続きを書くのが楽しみです。。
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by komakishi | 2004-05-26 23:57 | 昭和59年
水晶。
これが高価なものだと知ったのはもう少しあとのこと。

中学3年だったかと思う。小学の体操スクールからの友人がいたからか、それとも体操スクールでこの辺りを訪れていたのかよく覚えていないが、岩崎という地区に数回遊びにいった記憶がある。
遊びというよりは、水晶を取りに行ったのである。

しかもなんの苦労もなく、取れた記憶がある。方法すら覚えていない。

ただ覚えているのは、私にとって水晶はその辺の石ころよし少しキレイなだけ。

無知とは怖いものだ。

岩崎ついでに。水晶をとった後、必ず入った店がある。
「角屋」という、いわばお菓子やだ。角屋は結構どこでも見る、角屋のそのほとんどが、道の角にあるからだ。(小牧限定?)

ここでチュウチュウを買って自転車で家へ戻る。
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by komakishi | 2004-05-26 20:29 | 昭和55年
中学2年に進学し、担任が変わった。
担任の名前は西川先生、西川菊次郎先生である。
名前が強烈であった。
この先生、味岡中学もしくは篠岡中学からの転任であったと記憶している。
担当科目は社会科、兄貴っぽい性格でテニス好き。
生徒を口頭でしかるが手はなかなか出さない。しかし一度だけ手を出した、原因は忘れたが、その時しかる原因であった生徒は「びんた」をされた。その時、西川先生の目には涙があったのを憶えている。

さて、その西川先生であるが、小牧駅の近くのビル(マルサビル)の上のマンションに住んでいた。
当時、小牧駅周辺では一番高いビルであった。

このビルの1Fには「ぶんせん堂」という本屋が入っていた。この当時、大きめの本屋はこの「ぶんせん堂」と上新町の「●●書店(名前忘れた)」

「ぶんせん堂」ではいつも、カーペンターズのインストが流れていた、それを聞きながら意味もなく本屋にいた思い出がある。
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by komakishi | 2004-05-23 13:35 | 昭和54年
私の自宅を南南西へ約800m位にいった所、小牧市民プールの横に小牧市民グランドが完成したのがこの頃かと思う。

世の中の憧れのスポーツがまだ野球だった頃、自宅の近くに野球のできる施設ができるなんて夢のようでした。

その当時、私は運動音痴、野球なんてもってのほか。なのに友人が皆、野球の話をしていたので自然と野球がわかるようになった。両親は巨人ファンなのに私が少年ドラゴンズへ入り、星野投手のサインボールをもっていたのは友人の影響である。

さて、その小牧市民グランドの「こけらおとし」として中日近鉄戦が行われました。但し2軍戦。でもその2軍の中に青山という投手と田尾という選手がいたため大変な「賑わい」であった。

まぁよくわからないけど私もその賑わいに参加していました。

中日は確かこの前年1974年にV10を目標としていた巨人を打ち砕いて優勝をしていた。


「一番高木が塁に出てぇ~、二番~~~」てな歌もありましたね。
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by komakishi | 2004-05-19 23:49 | 昭和50年
たぶん小学5年になったころである。
友人は沢山いたが、飯田君とはよく遊んだ。当時彼の家は小牧ストアの近くに住んでいた。何故よく遊んでいたのかはわからないがとにかくよく遊んでいたのである。

当時私の移動手段は「けった」(名古屋弁)つまり自転車であった。
東京の子供と違って渋谷や池袋という地域が小牧にはないので、遊ぶと言えば、ショッピングセンター(当時私はデパートと思っていた)の周辺。

小牧のショッピングセンターは主に駅周辺のユニーとジャスコであったが、この頃(正確ではないが)、小牧山の近くにユニーができた。2階建てではあるが売り場の面積は当時小牧一、このユニー、小牧駅と分けるために
「ぞうさんユニー」と呼ばれていた、それは「とうや」の所にユニーという名称と「象」のマークがあったからである。
この「象」の意味は、わからない。

このぞうさんユニーによく行った、一緒にここに行ったのが飯田君である。

1階は食料品売り場と雑貨系のテナントがあった、私は主にレコード屋でたむろってた。後にここは新星堂になるが当時から新星堂かどうか憶えていない。
そういえば、ここのイベントでベイシティーローラーズのフィルムコンサートを主催した、参加をしたら女の子だらけで、とても恥ずかしかったのを憶えている。

2階は主に衣服の売り場と、ショッピングセンター名物のゲームコーナー、飲食コーナーがあった。当然私はゲームと寿きやのラーメンははずさなかった。

そういえば、このユニー、小牧では初めてエレベーターのついたショッピングセンターでもあった。

追伸:飯田君も今は小牧ではないそうだ。数年前に某同窓会サイトで彼とやりとりをした。
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by komakishi | 2004-05-19 21:28 | 昭和51年
4月より中学生。入学をしたのは応時中学校
当時はまだ新設校である。


応時中学校のサイトより直接リンクをさせて頂きました

「時に応じて」かなにか知らないが古い言葉からの流用だそうだ、学校の名前には珍しく地名ではない。
授業始業、終業のチャイムがないのも当時は斬新であった。

私は1年3組だったと思う、担任は江口和子先生、当時42歳で独身、特殊学級を受け持つことができる免許も持っている。担当は美術。1年目はわからなかったが、3年も同じくこの方が担任になっであった。その時 「ヒステリックでわがまま、生徒のひいきの激しい先生」ということがわかった。
本人悪気がなかったのかもしれない、もしかすると生徒との接し方がわからなかったのかといまさら思う。

中学に入って、科目毎に先生が変わった。
理科は林先生、英語は松下先生(松下薬局というお店のこどもらしい)、音楽は山本先生、体育は押谷先生。。。。こんな感じだ。

授業もそうだが、管理教育を目指していた愛知県。応時中学では、クラブ活動と委員会活動は強制されていた(義務という表現がよいかも?)

私が所属していたのは。

委員会 放送委員会 校内放送を受け持つ。小学校からの流れ。
クラブ  体操クラブ 説明不要。これも小学校からの流れ。


小学校と比べ色々と変わった、ある意味少し生意気なガキというか、大人になれた感じもした。

この年のできごと
5月21日 - 新東京国際空港(成田空港)開港。
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by komakishi | 2004-05-19 13:18 | 昭和53年
私が始めてアルバイトをしたのが、昭和53年の冬休み。
当然、中学校がアルバイトを許すわけがない。

小牧市北外山に昭和49年頃できた小牧ストアー、個人商店が一つの建物の中にテナントとして入る。商店街みたいなもの。
ここの系列は勝川ストアーとか師勝ストアーがあったと記憶している。

小牧ストアーの店主は、よく両親が経営していたお店によく通ってくれていた。
その流れなのか、亡き母が家の手伝いをするより外で修行をした方が本人のためを思ったのか、なぜかアルバイトをするようになった。

アルバイトをしたのは、小牧ストアの中央入り口のあたりにある伊賀商店というお菓子屋。
仕事の内容はお菓子の販売、陳列、お菓子の袋詰め。
経営者であった伊賀ゆうじさんはかなりの「厳しい」人でかなり怒られた。でも中学生にしてはいい経験である。今思えばここから私の商売に関する基礎ができたのかもしれない。


ここで記憶をたどって、当時小牧ストアーに入っていたお店をあげてみる。

大平ドラック   小牧ストアーなきあともこの地でスーパーを運営していました。
きくや       伊賀商店のライバル会社
○○乾物店   乾物屋です。店の名前忘れました。
おもちゃや○○ 名前忘れました。

小牧ストアーのアルバイトは中学卒業とともにやめてしまいましたが、それ以降も全てお客さん相手のアルバイトがほとんどであった。


この年のできごと
8月12日 - 日中平和友好条約調印
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by komakishi | 2004-05-19 12:58 | 昭和53年
高校生活に慣れ。アルバイトがしたいと思っていました。
基本的に商売系を希望していたところ、高校から自宅までの通学路にVマートという小牧に本社があるスーパーのアルバイト募集の張り紙を見かけました。
早速応募し連絡を待った所、1週間程で連絡があり採用されました。

基本的には、商品の陳列とレジ。色々と憶えました。
商品陳列ではエンド、まえだし、棚卸、棚代え、レジはまだバーコード導入前のつり銭も計算されない機械式。

3年近く働きましたね。

ところでこのVマート。
私が勤めたのは名鉄小牧線「間内」駅の前にある間内店。小学校4年の時の開店した店です。
Vマートはここ以外では、上新町店(本店)、元町店(本社)、小牧原店、味岡店、北外山店など色々なところにありました。まだ小牧にはコンビニは一軒もなかったため売り上げもよかったのでしょう。

ワタキューは綿久をカタカナで表示したもので、当時小牧では非常に力のあったスーパーでした。今は全く存在していません。なぜか。。私も知りません。
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by komakishi | 2004-05-18 21:58 | 昭和56年
桜井に住んでいた私。小牧の駅まであるくのはちょっとした冒険。
小牧駅ではいつも駅前のユニー(西川屋)で遊んでいた。

おもちゃをみたり、ぶらぶらしたり。5歳の子供がすることではない。
このユニーではエスカレーターに座っていて知らず一番上まで言って、ズボンが巻き込まれかけてお尻を怪我したのを覚えている。
当時は安全装置はなかったのか??確かとまった覚えがない。

現在の小牧駅は地下になってしまったのと、人の流れが分散してしまいあまり人が歩いていないが、当時小牧駅の周りは、本当にたくさんの人がいた。駅の利用客、買い物客などが。。商店街も活気があった。個人ががんばっていた時代である。

そんな小牧駅の前にパチンコ屋がど~んとあった。
愛知県というのはパチンコ屋がたくさんあってなにも珍しくないのだが、問題は屋号である。
名前はニューヨーク。

なんてことはないように思えるが、その後、日テレ(中京テレビ)のアメリカ横断ウルトラクイズの罰ゲームにも登場しているパチンコ屋なのです。

場所で言えばユニーを駅に向かって、第一勧銀の向かい。小牧駅、バスターミナル(バスロータリー)の前でもありました。

この年のできごと

8月 - 歩行者天国が東京・銀座などで始まる
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by komakishi | 2004-05-18 19:40 | 昭和45年