私の記憶をここに刻みます。


by komakishi

カテゴリ:昭和54年( 5 )

私は勉強があまりできませんでした。
家が自営業なので、基本的には「ほったらかし」状態。
それでも、「塾ぐらいは」ということで、応時中学校の同級生 飯田君のおすすめで
間内駅の近くの塾に通うことに。

名前が思い出せない。

当時あったVマート間内店から春日井市方面へ向かい、名鉄小牧線の線路を渡り
鈴木商店を超え、タカケンクリーニング(当時)の先の角を左に曲がった所にあった
塾。

昔タイプの塾。「進学校を狙え!」ではなく「楽しく勉強をしよう!」そんな塾。
先生も二名。
この塾のオーナー
他から来ている先生(足が不自由な方でした)

学校の延長のようで勉強をする。 途中休憩でお菓子が出る。

ゆっくりとした塾。

そこである男の子と出会う。

松下祐君(今は某会社の娘さんとご結婚をして別姓を名乗っています)

不思議なことにこれをきっかけに仲良くなった。


何故か、何故か。 不思議なもんです。
[PR]
by komakishi | 2006-11-22 19:48 | 昭和54年
私の実家は、料理屋であった、お店が終わるのがこの当時
20:00位、22:00には床につく両親。
体格がよく、大食漢でもあった父。
夜になると私を誘いよく行ったお店。

電車ラーメン。

小牧の中でも多きな基幹道路となる国道41号線、当時は旧国道41号
(県道名古屋犬山線)に対して国道41号バイパスと読んでいた。

国道41号線を名古屋から犬山方面に向かい、155号線の手前、左側
24(ウーホー)の近く。

何故電車ラーメンか。お店が電車だからです。



電車を買い取り、地べたに電車を置いて、その中でラーメンを食べる。
地元でもなかなか有名なお店でした。
国道沿いなので、当時珍しく深夜まで営業をしていました。

父と私は、ラーメンと一緒に入り口にある、保温から、串かつを味噌に
付けて食べる。これがいつものメニュー。

父とは仲が良いとはいえませんでした。でも何故か今ある思い出はいい
ことばかり。

そんな思い出の電車ラーメン。 国道41号線の拡幅時に、電車の建物(?)
を手放し、国道41号線の名古屋寄りに「ラーメンハウス一番星」として
引き続きお店をやっていたとか。

今どうなっているのでしょうか?

私にはわかりません。
[PR]
by komakishi | 2006-01-20 23:23 | 昭和54年
中学2年、学級編成があり担任や科目の先生が変わった。

西川菊次郎先生は他でも語ったので、他に印象に残る先生
をここで。

やはり宮本先生だろう。。。

しかし、私はあまりこの先生を語ることができない。
というか、もっと宮本先生を愛し、語ることができる人が沢山い
るのでその方に譲ります。

あえて、少し触れるのならば。。。

この先生、記憶ではすぐ近くの米野小学校から赴任してきた。
応時中学は南小学校と米野小学校の生徒がいる。
米野小学校卒業生からも人気があり信頼のあった先生。
すぐに話題となった。

体育の先生であり、三重県では野球の名門高校の卒業

(実は、この後進学する、中部工業大学付属高校に赴任してき
た柏木先生の先輩にあたる)。

先生は兄貴である。

最初はわからなかったが、1年間 体育を受け持ってもらい
この先生がどれだけ凄い人かわかった。

この先生は教育者である以前に「人」である。

学問を教えるというより「人」を教える先生。
熱心というよりは、自然である。

そこが皆に受けたのだろう。

やさしさはあるが、厳しい、怒るととても怖い。
しかしその人のことを思っているという感情が伝わる
(この辺り、西川先生に似ていた)

某卒業生のコミュニティーサイトで同級生の書き込みのこの
先生と集う書き込みがある。

宮本先生のことは、私ではなく その人達に語ってもらいたい。


補足:
宮本先生は今も小牧で先生として活躍をされているという噂を聞きました。
(未確認)
[PR]
by komakishi | 2005-06-12 02:05 | 昭和54年
私は通学路を守ったことがなかった。
守ったのは中学1年の秋頃まで。
それ以降は、応時中学校が定めた通学路を通らず、独自の通学路で通っていた。
通学路は、学校が「安全と認めた通路」だと思うのだが、体操クラブでヘトヘ
トの私には、こんか遠回りをする通学路は歩きたくなかった。

でも不思議なことにその独自であるはずの通学路、私以外の生徒を使っていたの
で、皆も同じ考えだったのだろう。

校門を出て300m先を皆と違う方向へ。

最初は公道をあるき、途中から私道をぬける。そして大通り。

その大通りに前の喫茶店があった。
場所は、大山というところにある「支留比亜(しるびあ)」という名前のお店。
なんとまぁ、暴走族的な名前。「なめ猫」が考えだされた土地柄なのか、今見る
と笑ってしまう。


<余談>
 このお店にあったピザトーストは、まだピザが貴重品(笑)だったこの時代に
は画期的なメニューであった。
親と「支留比亜(しるびあ)」に行ったら必ずこのピザトーストを食した。
 「支留比亜(しるびあ)」の詳しい情報は「まるがさん」の
 *まるが*くいだおれブログ*をご覧ください。



この「支留比亜(しるびあ)」の裏を通り、この先は田畑のあぜ道を抜ける。

あぜ道の途中に名鉄小牧線の線路(踏切)がある、遮断機もないのでとても危険
である。
(現在この辺りの線路は地下化している)

そこを超え池田川を渡ると、左側にVマート外山店、右に小牧ストアが見える。

そこから500m先あたりから公式の通学路に合流する。

つまり。。
私道、あぜ道、遮断機のない線路。学校としては絶対認めない通学路ですね。
[PR]
by komakishi | 2005-06-03 12:00 | 昭和54年
中学2年に進学し、担任が変わった。
担任の名前は西川先生、西川菊次郎先生である。
名前が強烈であった。
この先生、味岡中学もしくは篠岡中学からの転任であったと記憶している。
担当科目は社会科、兄貴っぽい性格でテニス好き。
生徒を口頭でしかるが手はなかなか出さない。しかし一度だけ手を出した、原因は忘れたが、その時しかる原因であった生徒は「びんた」をされた。その時、西川先生の目には涙があったのを憶えている。

さて、その西川先生であるが、小牧駅の近くのビル(マルサビル)の上のマンションに住んでいた。
当時、小牧駅周辺では一番高いビルであった。

このビルの1Fには「ぶんせん堂」という本屋が入っていた。この当時、大きめの本屋はこの「ぶんせん堂」と上新町の「●●書店(名前忘れた)」

「ぶんせん堂」ではいつも、カーペンターズのインストが流れていた、それを聞きながら意味もなく本屋にいた思い出がある。
[PR]
by komakishi | 2004-05-23 13:35 | 昭和54年