私の記憶をここに刻みます。


by komakishi

カテゴリ:昭和53年( 5 )

中学1年生。
まだコンビニはなかった、夜は静かである。
夜遊びする場所もなかったので、夜遊びのしようがなかった。
でも1年に1回おおみそかだけ許された。

集まる場所は国道41号線の24。
当時は24時間営業の店が2店あった。

・花塚橋南交差点のお24
・弥生町西交差点の近くにある24

花塚橋南交差点のお店はいつの間にか閉店していたので、弥生町西交差点の近くにあるお店
に集まった。

「24」
風営法改正前なので、24時間中ずっとゲーム施設とオートレストランはオープンしていた。

そして、当時私たちの世代は「24」を「ニーヨン」と呼んでいた。
7歳年下の弟世代は「ウホー」と呼んだ。
どうやら「ウホー」が正式名称らしい。

24にたまるのは応時中と牧中の学生。
ゲーム施設(ゲームセンター)にたまる(集まる)のは不良というイメージがあるが。
全然そんなことなかった。

やっとゲームがTVゲームにかわったけど 稼働していたのは
インベーダーゲーム、ギャラシアン、ギャラガ、ムーンクレスタ、シェリフ等。

でもね、おおみそかに夜遊びを許されていても、そんなに遅い時間までは遊んでいなかった。
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by komakishi | 2007-12-28 16:21 | 昭和53年
娯楽のあまりなかった小牧。
小牧市民プールは、小牧の南方にある。そして自宅からも近い。

中学1年の1学期末試験。
勉強があまり好きではなかった私。部活もないし早く帰ること
ができるこの時期。そして夏。

夏と言えば、プール これは当たり前である。

試験中、応時中学では「市民プールへ行ってはならぬ」という
「おふれ」が出ていた。

でも時間があって暑いので「そんなことは関係ない!」

てなわけで、友人の神野君と一緒に強行突破!

プールへはその「おふれ」が届いていないようなので、何も問
題なく入場できた。そして。水!! 壮快! 気持ちがいい!

何分たったのだろうか。。。何か市民プール内では不穏な雰囲
気が。。。。 

先生である、先生がパトロールに来ていた。

「馬鹿正直」な私は神野君と逃げた。。しかしあえなく「お縄」
となりきつ〜い注意をされてしまいました。

その後日。なんと他の友人も当日同じ時間にいたそうだ。でも
彼らは先生が来ていても「なにくわぬ」顔で泳いでいたので、
「お縄」にならなかったらしい。

「でも、待てよ?」

小牧市民プールでは、私が小学校の時、通常のプールで死亡事
故(*)がおきてしまったため、身分証を提出した上ではないと入
場できない。ということは身分証をおさえてしまえば、簡単に
つかまえることができるはずなのに。。

先生も頭を使っていないようですね。(笑)

小牧市民プールの想い出ネタをもう一つ。
現在は、小牧市 南スポーツセンターという一つの名称になったので
道路も整備され、ロッテリアや清水屋がある場所である。

この当時は道路は舗装されておらず。「お店」も市民プールの
前に1店のみ。
プールで遊んだ後その「お店」でパインアイスを買う。

これが至福の贅沢であった。

補足:
ここの思い出にある小牧市民プールは現在、南スポーツセンターの
水泳プールのことです。現在の小牧市民プールは温水プールをさ
します。



*市民プール死亡事故:昭和50年代の初頭に通常のプール(通称
:ふかいプール)で、肉屋の息子さんが亡くなった。
それ以来、通常のプールに入るには、泳録証(50m以上泳げますという
証明)が必要であった。
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by komakishi | 2005-06-01 13:15 | 昭和53年
応時中学入学したその年、体操クラブに入った。
応時中学では クラブと委員会へ入ることは強制であった。

小学校の時から、小牧市スポーツ委員会(正式名称忘れた)
の体操クラブに入っていたので、こんな不器用な私でも、
1年生の早い段階から選手になれた。たまたまである。

体操クラブも他の運動クラブと同様に他の中学との対抗試合
(体操の場合練習)がある。

その時、顧問の先生がよく利用したのが、「子(ね)の子」のおに
ぎり。(当時の顧問は田中先生)

「子(ね)の子」はいろんなところにあったが、主に利用したのは、
2カ所。

・県道名古屋犬山線(旧41号線) 小牧南小学校の近く
 (現在はゲオ)
・国道155せん沿い、小牧市民会館近く

コンビニや弁当屋がなかったので、本当に重宝しました。
私のお気に入りは、「たらこ」と「しぐれ」。

そんな「子(ね)の子」も今は倒産してしまったらしいですね。
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by komakishi | 2005-05-25 18:34 | 昭和53年
4月より中学生。入学をしたのは応時中学校
当時はまだ新設校である。


応時中学校のサイトより直接リンクをさせて頂きました

「時に応じて」かなにか知らないが古い言葉からの流用だそうだ、学校の名前には珍しく地名ではない。
授業始業、終業のチャイムがないのも当時は斬新であった。

私は1年3組だったと思う、担任は江口和子先生、当時42歳で独身、特殊学級を受け持つことができる免許も持っている。担当は美術。1年目はわからなかったが、3年も同じくこの方が担任になっであった。その時 「ヒステリックでわがまま、生徒のひいきの激しい先生」ということがわかった。
本人悪気がなかったのかもしれない、もしかすると生徒との接し方がわからなかったのかといまさら思う。

中学に入って、科目毎に先生が変わった。
理科は林先生、英語は松下先生(松下薬局というお店のこどもらしい)、音楽は山本先生、体育は押谷先生。。。。こんな感じだ。

授業もそうだが、管理教育を目指していた愛知県。応時中学では、クラブ活動と委員会活動は強制されていた(義務という表現がよいかも?)

私が所属していたのは。

委員会 放送委員会 校内放送を受け持つ。小学校からの流れ。
クラブ  体操クラブ 説明不要。これも小学校からの流れ。


小学校と比べ色々と変わった、ある意味少し生意気なガキというか、大人になれた感じもした。

この年のできごと
5月21日 - 新東京国際空港(成田空港)開港。
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by komakishi | 2004-05-19 13:18 | 昭和53年
私が始めてアルバイトをしたのが、昭和53年の冬休み。
当然、中学校がアルバイトを許すわけがない。

小牧市北外山に昭和49年頃できた小牧ストアー、個人商店が一つの建物の中にテナントとして入る。商店街みたいなもの。
ここの系列は勝川ストアーとか師勝ストアーがあったと記憶している。

小牧ストアーの店主は、よく両親が経営していたお店によく通ってくれていた。
その流れなのか、亡き母が家の手伝いをするより外で修行をした方が本人のためを思ったのか、なぜかアルバイトをするようになった。

アルバイトをしたのは、小牧ストアの中央入り口のあたりにある伊賀商店というお菓子屋。
仕事の内容はお菓子の販売、陳列、お菓子の袋詰め。
経営者であった伊賀ゆうじさんはかなりの「厳しい」人でかなり怒られた。でも中学生にしてはいい経験である。今思えばここから私の商売に関する基礎ができたのかもしれない。


ここで記憶をたどって、当時小牧ストアーに入っていたお店をあげてみる。

大平ドラック   小牧ストアーなきあともこの地でスーパーを運営していました。
きくや       伊賀商店のライバル会社
○○乾物店   乾物屋です。店の名前忘れました。
おもちゃや○○ 名前忘れました。

小牧ストアーのアルバイトは中学卒業とともにやめてしまいましたが、それ以降も全てお客さん相手のアルバイトがほとんどであった。


この年のできごと
8月12日 - 日中平和友好条約調印
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by komakishi | 2004-05-19 12:58 | 昭和53年